[スペックマニア] 37回

日本のスポーツ車 1960〜1990



第13回  マツダ コスモスポーツ
(L10B型)1967年


最高速=185km/h 0→400m=16.3秒
(カタログ値)



6年の歳月、そして社運をかけて開発した初代REカー
 いまでこそ「ロータリー・パワー」と呼ぱれるそのめざましい動力性能や低公害の魅力によって、評価も定着した感のあるロータリー.エンジン(RE)だが、REを開発したドイツのNSU社から東洋工業(現在のマツダ)がいち早く技術導入、マツダ技術陣が必死にその実用化と取り組んでいた1960年代は、まだまだREは「海のものとも山のものとも分からない」存在であった。
 コスモ・スポーツはようやく実用化にこぎつけたREの「国産では初めての搭載モデル」であった。
と同時になじみのうすいREをユーザーにPRするためのデモンストレーションカーでもあった。
 REはNSU社が開発成功を発表したのが1959年(昭和34年)12月、さっそく東洋工業が技術導入の交渉に乗り出して契約の仮調印が1960年(昭和35年)10月、正式調印が1961年(昭和36年)2月で、REの国産化がスタートしたまではよかったが、当時のREはまだ技術i的に問題が多くそのまま実用化、市販化とはいかなかった。
本家のNSU社でさえRE搭載の第1号車、NSUバンケル・スパイダーを発売したのは1964年(昭和39年)11月である。
 東洋工業でも61年11月には試作第1号エンジンを完成させたが、一定時間運転すると急激な性能低下をきたすなど、その製品化は難航している。
1963年(昭和38年)10月の第10回自動車ショーには1ローターと2ローターのREの単体が出品されたが、性能低下の問題はまだ解決されておらず、完成品とは呼べなかった。
 REを搭載した2シーターのスポーツ・クーべ、コスモ・スポーツの”正式デピュー”は翌64年9月の第11回ショーであった。
”正式”というのはREの単体のみで、RE搭載モデルは出展されなかった。前年のショーの会場に、当時の東洋工業社長の松田恒次氏を乗せた2シーター・スポーツが姿を見せていたからである。
これがプロトタイプ・コスモで、したがってコスモ・スポーツのデピューは正確には”正式デピュー”の1年前、63年10月ということもできる。
 1965年(昭和40年)、1966年(昭和41年)の秋のショーにもコスモ・スポーツは出展されたが、市販までには至らず、その間もマツダ技術陣の実用化に向けての苦闘が統けられていた。
そして画期的ともいうべきカーボン・アペックスシールの採用によって、やっと性能低下の問題を解決したのは66年12月のことであった。
 こうしてREの試作をスタートさせてから実に6年の余、1967年(昭和42年)5月からコスモスポーツの市販が開始されている。
「エキゾチック」と評された、低くテールの長い独特のスタイルのボディに搭載されたREは、491ccx2ローターの10A型で、最高出力は110ps/7000rpm、最大トルクは13.3kgm/3500rpmを発揮した。
最高速185km/k、ゼロヨン加速は16.3秒。
サスペンションはフロントがダブルウィッシュボーン、リアはドディオン式リーフ・リジッド、ブレーキはフロントがディスクである。
 発売から1年2カ月あまりの1968年(昭和43年)7月、マイナーチェンジで10A型REは110PSから128PSに出力アップ、ホイールベースの延長やトランスミッションの4速から5連への変更などが行なわれた。
これによって最高遠は200km/hに、ゼロヨンも15.8秒に引き上げられた。
 1972年(昭和47年)9月、カペラ、サバンナなどのRE搭載モデルに席をゆずって”REの先兵”は生産を打ち切った。
発売から5年余、生産累計は1176台であった。
 91年、マツダは4ローターで念願のルマンに初めての勝利を収めた。
ロータリーエンジンの開発から31年の歳月が流れてたわけだが、その間マツダのスポーティカーはすべてREを搭載していた。
最後に勝つのは信念か。




1968年7月にマイナーチェンジされたモデル(ラジエター開口部が大きい)。パワーは128psに引き上げられミッションは5速となり最高速は200km/h、ゼロヨンは15.8秒の俊足モデルとなる。

コスモスポーツのりアからは宇宙(コスモ)を飛ぶ円盤の印象を受ける。優れた空力特性で最高速は200km/h。(後期型)
短いシフトレバー、大径の直立したステアリングホイールが当時をしのばせる。
助手席にはアシストグリップがつく。
後期型(68年7月マイナーチェンジ)のエンジンは最高出力が18ps引き上げられ128ps/7000rpmとなった。
57年5月のデビュー時には6.45H14-4PRのバイアスタイヤを履いていたが、68年7月のMCで155HR15のラジアルとなった。

主要諸元  コスモスポーツ
ショーモデル
コスモスポーツはモーターショーではいつも人気を集めていた。クラウン/セドリックが100万円の時代に(それも可処分所得が低かった)158万円(後期モデル)のスポーツ力一は庶民にはやはり高根の花だった。写真は1972年東京モーターショーのーコマだが、その後ろにはサバンナGT(RX‐3)のレーシングバージョンが展示されている。こうしてコスモスポーツは累計1176台、5年5カ月の生命を閉じるのだった。
 エンジン 
   種類/型式
   ボアxストローク
   総排気量
   圧縮比
   最高出力
   最大トルク
   燃料供給装置
   燃料タンク容量
 トランスミッション
   型式
   変速比 1/2/3
         4/5/R
   最終減速比
 シャシ
   ステアリング
   サスペンション    前
               後
   ブレーキ       前
               後
   タイヤ
 ディメンション&ウェイト
   全長x全幅x全高
   ホイールベース
   トレッド     前/後
   最低地上高
   室内長x幅x高
   車両重量
   乗車定員
 車両価格(当時)
     148.0万円

直2・ローター/10A
−−−
491cc x 2
9.4
110Ps/7000rpm
13.3kgm/3500rpm
キャブレター
57リットル

4MT
3.379/2.077/1.390
1.000/−−−/3.389
4.111

R&P
ウィッシュボーン/コイル
リジッド/リーフ
ディスク
LTドラム
6.45−14−4PR

4140x1595x1165mm
2200mm
1250/12401冊
125mm
860×1300xg990mm
940kg
2名

モータースポーツ

’68年、ニュルブルクリンクサーキットて開催されたマラソン・デ・ラ・ルート48時間レースにマツダは2台のコスモスポーツを出場させた。2台中1台は見事4位入賞し、ロータリーエンジンの性能の高さを世界中に示した。

当時のインプレッション
マツダがハンケルから特許を買って7年目にしてロータリーを実用化させたのがコスモスポーツ。それまで耳にしたことのないパラパラいう連続排気音が面白かった。
レシプロの手応えとまったく違っていたのは横真一文字のようなトルク感。rpm変化と無関係のようなトルク特性には奇異さを感じた。シフトタイミングが体感で分からないからである。前後のオーバーハングがむやみにあるスタイルは運動性にやや影響力を与えていた。

エピソード
ロータリーエンジンはフェリックス・ハンケル博士とドイツのNSU社との提携により完成し、59年に発表された。そのライセンス取得には世界で100社、国内でも30数社が申し出を行なっていたが、そんな中てマツダは翌60年10月に板契約を済ませ、明けて61年2月にはハンケル社、NSU社との間で特許獲得の正式著印調印にこぎつけた。4か月後の7月には通輸省の許可もおり、ロータリーのマツダがその第一歩を踏み出すことになる。

カタログ
コスモスポーツは自動車の先進国・アメリカに向けて輸出が開始された。キャッチは「ロータリースポーツ」。ところが当時の対米輸出車でなんとかガンバツテいたのはフェアレディぐらいのもの。アメリカでは東洋工業(現マツダ)なんて名前はほとんど知られていなかったし、ロータリーエンジンに対する理解も浅く、ほとんど売れなかった。これは当時のカタログの一部で、北米向け輸出車名はMAZDA110S。110は最高出力I10PSからとったものと思われる。写真は初期型。
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